それは畢竟するに同じことなんでは?表裏一体というか

(2)しかし、そんな「どうしようもない自分」も一人で生きているのではなく、何か大きなものに生かされている。

(6)しかし、その「どうしようもない自分」は、「大きなものに生かされている」という一点で、絶対的に肯定されている。

しかし、相田みつをに毒を吐くのではなく、「大きなものに生かされている」という設定にまで文句をつけようとするならば、ちょっと面倒になってくる。相田みつをは嫌いでも、「大きなものに生かされている」という物言いなら全然抵抗のない人は、世間にいくらでもいるだろうから。というより、俺みたいに無性に気に入らない人間のほうが、おそらくずっと少数派だろう。

 それもそのはずで、実は「大きなものに生かされている」という感覚は、日本人が古来、仏教伝来以前から持っていた、宗教意識の原点みたいなものなのだ。というより、これは世界的に見ればごくポピュラーな意識であって、気に入らないことがあれば平気で人間を虐殺する、人間とは隔絶された理解不能絶対神を発明したユダヤ教的宗教感覚(言うまでもなくキリスト教イスラム教の原点だ)のほうが、むしろよっぽど特殊なのである。日本の場合、仏教伝来以降は「大きなもの」が「大日如来」あたりの姿を借りて、密教がその中心的な受け皿になってきた。宗派で言えば真言宗天台宗。それから実質的には臨済宗曹洞宗などの日本化した禅系も、この系譜に属するものだ。いわば、「日本教主流派」とでもいったところか。

 しかし一方、非主流派というか何というか、「自分は現世では孤立無援」で、「何も自分を支えておらず」、「だからこそこんな現世など早くオサラバしたい!」という感覚もまた、日本人の宗教意識には存在する。浄土教の系譜だ。
 
浄土教の行者は浄土へ往生することをひたすら願う。浄土というのはアミダ仏が主宰する天国みたいなもんだが、現世とはなんの繋がりもないから死ななければ文字通り逝くことはない。アミダ仏は自分を頼りにする者は全て浄土に迎えてくれる、という設定になっているので、平安時代には過激な浄土教の行者が続出した。過激な、というのは要するに、「奇想天外なやり方で自殺を図る」ということだ。

 少し話が流れたが、要するに浄土教のキモというのは、「現世では決して救われない」「そのかわり死ねばアミダ仏が救ってくれる」この二点。これにアミダ仏の独創的な解釈を加えて、スマートな形に毒を抜いて纏め上げたのが法然であり、その弟子の親鸞である。もっとも、親鸞の晩年になるとその毒を抜きすぎて、どうも微妙なことになっているのだが・・・・。

浄土宗の教義内容は詳しくないが、dozewuさんのおっしゃるようなものだとして。
日本教主流派」と「浄土教の系譜」と二分されて語っておられるが、これ、互いに全く違うようでいて、その求めるところ、目指すところは同じだと思う。それはつまり、人生にはどうしようもなく悲惨な辛い状況が起こり得るが、それを何とか受容可能なものにして乗り越えさせ、この世界を生きていけるようにする、ということだ。
日本教主流派」は「大きなものに生かされている」と信じることによって、「浄土教の系譜」は「現世では決して救われなくても、死んだらアミダ仏が救ってくれる」と信じることによって、それぞれこの世での生を艱難辛苦も含めて人に受け入れさせ、担わせる拠り所となるわけだ。ちと乱暴かもしれないが、およそ宗教とは、この世界をいかに理解したらよいか示すことで、人生での生き難い状況をどう受け入れて消化、解決するか、その方便に尽きると言ってもよいと思う。
さらに「大きなものに生かされている」ことで自己の存在が肯定される、というのはおっしゃる通りで、dozewuさんとしては、相田の書ではそれがあまりに声高らかに謳われている様子なのが気に障るということなんだろう。でも、dozewuさんがシンパシーを覚えるという浄土教の論法、「現世ではどうしたって救われない」「でも死ねば救われる」「だったら、まだ死ぬ必要はない」「死ぬときがきたら死ねばいい」というのだって、自己肯定のための機能を持っていることには変わりない。この場合、現世での生は「死んだら浄土で救われる」という信念に裏打ちされており、それがこの世での自己の存在を強固に支え、肯定するのだ。