ちなみに英語でfantasyという場合、性的妄想の類も含まれます

昨日のコメントから引き続き、「ファンタジー」って何なんだろ?ということを、しばし考える(andyさん、示唆に富むコメント有難うございます)。で、ウンウンいって考えてはみたものの、相も変わらず支離滅裂になるばかりなんだが。
うーん、何なんだろうなー。トールキンとかに代表されるような作品を指す場合が多いかもしれないが、幻想的な物語というものは洋の東西を問わず、大昔からあるわけで、ファンタジーが神話の直系の子孫ならば、その流れは連綿と続いてて当然であって。『旧約聖書』の創世記なんかも、ある意味ファンタジーとして楽しめちゃったりするし。
本来、神話ってのは「虚構」などというムナシイ意味になぞらえて使われるものではなく、実にリアルな力に満ち満ちた聖なる物語なのだ(フランス語のhistoireという語が歴史と物語の双方を表す、というのは、いろんな意味でつくづく興味深いわ)。まあ、私達現代人のほとんどは、そういう聖なる世界にもはや居を構えていないので、普通は神話を文学上の一形態と捉え、娯楽、読み物として消費しているけど、神話に連なるものを欲する気持ちは忘れてないんだろう。
で、その辺りに鍵があるに違いない(andyさん、以下のコメントとまさしく同じことを私も考えていたのです!)。

ファンタジーを以前、私製神話・私製伝説の試みと申しましたが、だとすると、それって、それを生み出す社会が「神話的・古代的なもの」から遠く隔たってしまったからという事情があるんじゃないでしょうか。ゆえにそれを作り出そうとする、みたいな。そんな動きが人間の側に起きるのかもしれない。ファンタジーとはその一つの現れなのかもしれないなんて思ったりしてます


しかし考えれば考えるほどに、文学をジャンル分けして、「ファンタジー」と他を区別することの意味ってナニよ?と思う。あー、もうこうなったら、文字に残されたものだろうが、口伝えのものだろうが、文学は畢竟全て神話であり、ファンタジーである、と言ってしまおう。その姿かたちを様々に変容させながらも、神話こそが私達の語るべきものであり、事実、これまで語ってきたものなのだ、と。