Call me naive, I don’t care.

渡辺謙が米アカデミー新規会員に推薦されたそうで。『ラスト・サムライ』での演技が評価されたんでしょう、いよいよ一流の映画人として認められましたね、ってなこと、ワイドショーのコメンテーターあたりが言ってそうだなー。ともあれ、ケン・ワタナビ御本人様にとっては名誉なことであろうし、彼に対して含むところは何も無いし、一片のニュースとして淡々と聞き流せばいいのだろうが、本日の日記はこれが発端となっているので。


「意識の流れ」ふうに語るなら、このニュースを聞いて今日、私の思考は次のようにさまよったのである。
言わずもがなのこととはいえ、この時代においてもなお、どうしようもなく、「日本」とか「日本的なるもの」という場合の扱いには「オリエンタリズム」が横たわってるんだな、と。で、それを鑑賞して、評価を下して、位置付けるのは、いつも向こう側であって。とりもなおさず日本、もといアジアは異文化であり、エキゾチックなものとして存在してるわけだ、欧米から見たら。賞賛にせよ誹毀にせよ、そこにあるのは他者をあるイメージに押し込め、かくあるべしと期待する視線であることに変わりなく、現在ここで現実に生きる人間の姿を捉えようとするものではない。映画にしろ、文学にしろ、音楽にしろ、異文化を表象するものは、それがエキゾチックで、「固有の文化」とされるものに忠実であればあるほど、もてはやされ、喜ばれる。

と、来たところで、はたと気付く。もしかして、アレクシーが感じている苛立だしさとはこれなのか。そしてまぎれもなく、私も「オリエンタリズム」の罠に陥っているのだ、と。
いや、そんなのは既にわかっていたこと。しかし、あらためてショックを感じた自分の認識の甘さといい加減さを記憶し反芻すべく、ここに日記として記す。
なんという体たらく。