This is what it means to be Sherman Alexie, apparently.

アレクシーの記事(2000年のものなんで、古い。でも写真付き)。http://www.bookmagazine.com/archive/issue11/alexie.shtml

アレクシーと言えば、怒りの炎を光背のように背負った姿が目に浮かぶ(まさに迦楼羅焔光。こりゃ阿修羅というより不動明王だわ)。少なくとも私が読んだことのある2冊、『リザベーション・ブルース』や『インディアン・キラー』執筆時には、怒りがたぎっていたに違いない。ページからは憤怒の火の粉が舞い落ちてくる感じ。どこかで読んだ別のインタビュー記事では、本屋での朗読会なんかに来た人に「白人を憎んでいるのか」と聞かれたりする、ってあったけど、うーん、こう身も蓋も無く堂々と質問ができるってのもすごいな、アメリカ人。私だったら怖くて聞けないって。
でも上記URLの記事によると、アレクシーも成長?して、ただ怒りまくるだけではなくて、もうちっと複雑で練れてきたというか、成熟してきたというか、落ち着いてきたというか。でも、ある意味、これはますます一筋縄ではいかない、凄みを増した感じになってきてる、ということかも。インディアンの側からも(白人)メインストリームの側からも、本人の意図しないものを過度に投影されるから、アレクシーも大変そうだ。でもって、反逆児であるのは相変わらずのよう。

しっかし、美形な人ってのは、怒っても絵になるんだろなー、とミーハーな妄想にしばし耽溺。美醜の観点から見ると、インディアンの人々ってかなり恵まれた容姿をしてる感じがするんだが…そう思うのって私だけか?これも変な幻想とか錯誤とかに陥ってる証拠かね。
ところで、アレクシーはニルヴァーナの故カート・コバーンと自分を重ね合わせ、相通じるものを強く感じているとのことで、仕事部屋の壁にはカート・コバーンの写真が飾ってあるらしい。
それでふと思ったのが、じゃあパール・ジャムはどうなの?ってことだったりするんだけど。エディ・ヴェダーって、確かインディアンの血が入ってるんじゃなかったっけ。いや、アレクシーはインディアンの血が入ってることを妙に自慢するような、要はインディアンを利用するやり方の変種でしかない、こうした流行りの風潮を嫌ってる様子だし(ま、当然だと思うけど)、エディが白人だろうがインディアンだろうが、そんなことはどうでもいいんだろうが。エディ・ヴェダーだってそれをウリにはしてないだろうし。でも、ニルヴァーナの話題が出てきて、グランジでシアトルで、ってことなら、きっとパール・ジャムも聴いてるんじゃない?と、想像してしまった。ちなみに私は両バンドとも聴く。ニルヴァーナは『ネヴァーマインド』しか持ってないけど。
なお、シアトルに行けばアレクシーの姿を見かける可能性大である様子。いつか行ってみたい、とミーハー魂炸裂中。今も同じ習慣を守っていれば、深夜のIHOPで遭遇できるってことで、ちょっと覚えておこう。でも結婚してたってのは些かショック(何を期待してたんだ)。『インディアン・キラー』の献辞に「ダイアンに。一緒にきてくれてありがとう」とあるので、多分そうかなーとは思ってたんだが、やっぱりね。いや、別にいいんだけど。
とにかくアメリカの若手作家として、日本でももっと注目されてもいいだろ!翻訳ストップしたまま放置してないで、ガンガン出してくれ。