『インディアン・キラー』

さながらスポケーンの阿修羅とでも呼ばせて頂きたい、怒れる作家アレクシーが満身これ憤怒に染め上げて世に放った問題作。こいつはまたかなり危険なシロモノ、しかも痛いんだよ。揶揄としてイタい、というのでなく、字義通りまさに「痛い」のだ。
インディアンであるということと、サイコパス的心性とでも称されるような、別の次元をさまよっている心の持ち主であるということ、この二つを己が宿命として併せ持つ主人公ジョン・スミスという象徴的存在を通して、露わにされる怒りと悲しみと怨念、なんてふうに安直に還元して説明してしまうのも的外れで、うー、なんと言えばよいのかわからん。(白人)殺しが主題ではないし。でも私はなんとなく、トマス・ハリスの『レッド・ドラゴン』に出てくるダラハイドを思い出してしまった。ダラハイドの中に怪物が生まれていく過程を語る際などに、ハリスは理解できない異様なものを眺める冷徹な視線ではなく、自分達にも連なる部分があることを自覚した眼差しを持つことで見えてくる姿を描いており、私なんかは知らず知らずダラハイドに感情移入して共感をさそわれるんだが、『インディアン・キラー』を読んでいると、それに似た感覚を覚える瞬間がある。この共感というのも、当方の都合の良い幻想かもしれないが。
で、この作品もやっぱり私の胃に消化不良を起こして暴れている。ヘヴィーなんで当分こなれそうにない。アレクシーって、簡単に好き、とか、わかる、とか言っちゃいけない人だと思い知る。
現代の合衆国でインディアンであるとはどういうことなのか、私の認識はその僅かな一端を眼の端に捉えたか捉えないか程度のものなんだろうが、これからも自分なりに考えていくことになるんだろうなー。ヒラーマンとかも今まで通りミーハー的には読めなくなりそうな予感。