雑感:研究者ってのも厳しい人生であることよ

人類学に限ったことではないが、研究者と研究対象との関係というものに潜む複雑な問題を考える時、生身の人間とその周囲の環境に、ある意味、お節介というか恥知らずなまでに入り込むことが必要な類の学問を、己の一生の仕事として選び、取り組もうとする研究者というのは、なんと危険な立場に身を置くものであるか、と第三者にすぎない私なんかでも気が遠くなる思いがする。
人文系の学問では、人間を標本として眺める視線は既に批判・否定されているし、これまでの「科学的」な態度は誤りであったと認めているし(宗教学でもこうした反省の上にたって、エリアーデのニュー・ヒューマニズムなんかの議論が出てきたんだろうな、と今更ながらに思う)、何をこの期に及んで、と感じる向きもあるだろうが、実際はそこらへんのことってあまり上手く対応出来てないようにも感じる。文化人類学をやってた知り合いは多かったけど、どうだったかなー。ある知り合いは、所詮自分たちには出歯亀的な闖入者って面があるから、とその厚かましさを自覚して語っていたが、それだけで終わってしまっているというか、ある種のシニシズムのような状態に陥っているようにも私には聞こえた。翻って自分を見るに、やはり明確な立場表明ができるほど突き詰めて考えてはいなかったし、結局はどうすべきか、なんてわからないままだけど。能うかぎり精一杯、人間的かつ真摯な姿勢を保持しようと努力するくらいしかないのかもしれない。
これについては恐らく、簡単には答えの出ない難しい問題ですね、などという曖昧な態度ばかりでは済まされない状況だってあるはずだ。研究者ならば、その仕事が後々批判されることも前提として、自らの立ち位置を表明する責任がついてまわるのだし、己の存在理由までも貫くようなキリキリとした鋭い問いを、常に我が身に向けて発する作業が必要となる。その先には自分の研究対象、あるいはその調査を助けてくれるインフォーマントの人々といった、実在の人間がいるわけで、人間の人間に対する責任や尊厳というものを絶えず意識せざるをえない。つまり、頭でっかちに知識のみを操って研究に従事し、論文を物する、といった類のいわゆる「象牙の塔」的姿勢で乗りきれるようなものではない、ということだ。そういう意味では、なんだか学者ってのも、ものすごくしんどくて、恐ろしい職業なんだなと思う。