荒れ野は荒れ野のままにさまよう
- 作者: 河合隼雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/11
- メディア: 文庫
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随分前に河合隼雄が『ファンタジーを読む』という著作の中で、『ゲド戦記』をユング心理学でもってズバズバ読み解く、というのを試みていた*1。
読んだ当初はあまりに小気味良く解読されていくさまに圧倒されて、へぇー、すごい、すごい!と感嘆するばかり、その気持ち良さに病みつきだった。まあ、その当時かなりの影響を受けたのは確かだ。
暫くして「河合センセのこれだって、読者の数だけ存在するだろう解釈のひとつにすぎないのよね」と遅まきながら思い至るようになり、だんだん懐疑的になっていったりもしたが。
それはひとつには、なんだかユング心理学の概念に逐一符合しすぎる(させすぎる?)というか、とにかくサクサクと読み解かれすぎちゃうもんだから、まさかそんなすっきりとしてるはずないやんけ、と生来の天邪鬼気質が顔を出したのもあるけれど、やっぱり私には作品の生地そのままにどっぷり浸かりたいと欲する気持ちが強いのだろうと思う。解釈とか解読とか苦手なのだ。そこまで深く読み込む能力が無い。何か心揺さぶられるものに遭遇すると、わけもわからずただひたすらそれに牽引されるのみ。
しかもこれは必ずしも好きという感情が付随する時ばかりじゃないのだ。例えば、私はブロンテの『嵐が丘』が嫌いなんだが、読む度に揺さぶられ、引きずり回されて疲労する。嫌いではあるけれど、いつも心穏やかでいられなくなる。そういう魔力のある作品だとはよく知覚してる、という感じか。
しかし、己の意識として意識されるもののさらに下層を覗き込んでみたのがユングだとすれば、このような混沌状態でこそ出会えるものがあるということかもしれないわけで。これがホントにユング心理学をよすがにした読み方であろうよ、などとうそぶいてみる。