これは、ジブリ映画『ゲド戦記』は未見の、単なるル=グウィン好きな奴のつぶやきです

たまさかhttp://d.hatena.ne.jp/renkonn/20060816を目にする。


極々個人的に思うに、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンという人はある意味「大人げない」のだろう。昼の精神の追随者ではなく、夜の精神の賛美者。ラショナルであるよりエモーショナルであることを時によしとする、あるいはそれを好む人だと思う。そして人格者であるのなら、それと同じくらいに人格者ではない。
彼女の作品を読んでいて、慄きは感じても、作者をことさら人格者だと感じたことはない。その作品の奥深さは私にとってはむしろ嚥下障害や消化不良を引き起こす。喉越しの良さや胸のすくような爽快感よりも、胃腑でのこなれの悪さ、なんとも知れないモヤモヤ感を感じることが多いのだ。しかしそれはけっして嫌なものではなく、倒錯気味なことを言えば、高揚感や快感を伴う。そのような反応を我が身に生ぜしめるル=グウィンは、あらゆる意味で恐ろしい(畏ろしいと表すべきか)人だとは思うが、人格者かと問われるとちと首肯しかねるのである。
かつて米国のフェミニズムの学者がル=グウィンを評して次のように言っていた。曰く、「彼女の言ってることは、まあ、悪くはないんだけど。ただ、もっと思想的に練れていたら良いと思う。」
私からすれば、フェミニズムなんてそれこそものごっつう頭の良い人達がやってる、とてもじゃないが自分なんぞの手には余るシロモノだと認識しているので、この指摘の正当性についてはわからないのだが、私はなんというか、おそらくはその「練れてなさ」こそがル=グウィンらしさなのだなあ、と感じたものだ。彼女は「ならず者どもを追い払おうとハンドバッグを振りまわして戦う、怒れるおばさん」"an aging angry woman laying mightily about me with my handbag, fighting hoodlums off" なのだ。
上記のサイト経由で知ったhttp://d.hatena.ne.jp/xialu/20060817にて、「熱い女性」という文言を見た。そう、xialuさんの感じておられるのと同じなのかはわからないが、私もル=グウィンは熱いヒトであると思っている。

そしてル=グウィンの書いたもの-小説のみならず、エッセイや評論も含めて-を色々と読んでみると、「肌の色」にまつわる彼女の意識や意図の一端が、緞帳の裏を覗くように見えてくる気がする。イシのことやら、人類学のアレコレも彼女の考えに影響を与えているわけで、そうした諸々から培われていったのだと思う。だから人種のるつぼであるアメリカといったような問題だけには収束できないものが横たわっているのじゃなかろうか。私を含め、ピンとこない人間には結局どうやったってピンとこない問題かもしれないけれど*1

*1:で、http://d.hatena.ne.jp/kann/20060320に於いて、わからないなりにジタバタしてみたり。