そこまで私たちは自由で孤独な地平にまで行けるのかわからない

この「共通基盤」に対して、あるいはそういう「共通基盤」を前提とすることに対しての異議申立てが生じた時、どうなるのか。共通基盤内でうまく折り合いをつけられる場合はいいだろうが、所詮フランスが定めた「共通基盤」とやらに則って自分たちの文化を意味付けあるいは価値判断されるなんてごめんだ、それは手懐けられたものでしかないよ、となった時のことを考えてしまう。ちなみに米国のブラックパワーやカウンターカルチャーの運動について、この種の「異議申立て」をキモとして見ると白人の側はやはり甘かったんかな、と思う。
そして自分が何者であるか問い続ける内に自らの民族性やらそこに基づく伝統やらに根ざさない、関係無い文化に惹かれ、それが自分の中における重要な柱となる場合だってあるわけだ。自己の民族性や伝統や文化を継承し、それを元にアイデンティティ形成している場合は部外者の目にも明白でわかりやすいけど、でも本当はそれがどんなものだろうが構わないのであって、他人の基準でなく自分の基準で選び取る自由が人間にはある。
民族性、伝統というものをことさらに重視したり注目したりする時、無意識にそれを珍奇なものとして眺める眼差しをも含んではいないかと自覚して問いなおす作業が必要となる。