私信というか、質問なんですが。気分を害されたらすみません。

私は普段からid:vedaさんの日記を拝見しており、愛読者と言っちゃってもよい人間だと思う。
で、http://d.hatena.ne.jp/veda/20040613に対し、疑問を感じたことなどがあり、コメント欄では長くなりそうなので、こちらに書いてみることにする。

瞑想は宗教の核心です。これがなければ宗教も神秘主義も成立しません。もちろん「祈り」も瞑想に含まれますし、浄土宗の南無阿弥陀仏マントラ瞑想と言えなくもない。

「祈りは人生の核心である」とはガンジーの言葉です。「忘我の境地」がなければ何人も生きられません。酒を飲むのも、カラオケで美声をふるうのも、料理に舌鼓を打つのも、踊り狂うのも、セックスするのも、映画や演劇を見るのも、コンサートに行くのも、スポーツをするのも、みんな「我を忘れる」ために行う行為です。その瞬間はそれまでの「私」を忘れ、ちょっとした自己超越の高揚した気分を味わっています。ただこれは一過性のものに過ぎないため、すぐにまたいつもの憂鬱な気分に戻ってしまいます。

祈りや瞑想を実践しない宗教家など存在しませんし、知識ばかりで実践しない宗教学者など、私はその存在価値を認めません。仏教は「智慧の宗教」と言われます。「知識」の宗教ではありません。智慧は「気づき」と「体験」によってしか得られないものです。本を何冊読もうがそんなこととは一切関係ありませんし、もし、知識だけで真理を得られるのなら「悟り」は国家資格になってしまいます。そんなものじゃない。

宗教の核心を「瞑想」あるいは「我を忘れる」という言葉でvedaさんは説明されておいでだが、これはつまり、私達が普通その中で生きていると考えるこの物理的な時間、不可逆的歴史時間と呼べるものから離れ、聖なる時空に身を置く、ということだろう。で、全くもってvedaさんの言っておられることはその通りだと思う。
「我を忘れる」という行為、すなわち歴史的時間に限定された生を抜け出ようとするこの本質的に宗教的な行為は、本人がそれを意識していようといまいと、私達の振るまいの中に厳然として見られ、どれほど俗にまみれた、一般的に「宗教」と言われているものと何の接点も無いようなスットコドッコイでしょーもない人間であろうと、完全に排除し絶縁することはできない。おっしゃるように「酒を飲むのも、カラオケで美声をふるうのも、料理に舌鼓を打つのも、踊り狂うのも、セックスするのも、映画や演劇を見るのも、コンサートに行くのも、スポーツをするのも、みんな「我を忘れる」ために行う行為」と言える。
とりわけ読書は、読み手を歴史的時間から引き離し、そこで語られる物語世界に埋没させる働きが顕著だ。これは自分の読書体験を考えてもよくわかる。いかにガチンコのリアルなノンフィクションだろうが、ページを開いた時に広がる時空に流れているのは、この均質な物理的・歴史的時間ではない。
だがvedaさんはお気づきだろうか、「これ(=忘我の境地)は一過性のものに過ぎない」というのは、私達がかつての原始的というか、アルカイックな社会に生きていた人間とは異なり、唯一無二の自己という歴史的時間に支配された個人性を発見し獲得してしまった現代人であることに大きく所以するのだということを。「忘我の境地が一過性ではない」文化的環境もある/あったということだ。宗教・宗教現象も歴史的・文化的な限定を受ける。現代の私達の視点を普遍的なものとして、他の時代、他の文化環境での宗教・宗教現象を眺めることは適当でない。しかしそれでもなお、そこには普遍的な特徴を見出すことはできるし、宗教学者はその歴史的・文化的限定性と普遍性の双方を見据えて宗教を理解しようとする。

私は覚えめでたくない生徒ではあったが、一応こういったことを宗教学という学問を通じて学んだ。というより、気付いた、とか、確認した、というほうが適切かもしれない。それまではぼんやりとした小さな芽のようなものに過ぎなかったことを、ああ、そう、そうなんだよ、そういうことか、とより明瞭な形で強く知覚する経験であったから。勿論、新しく目の前に開かれた地平の方が多いことはいうまでもなく、私は元来が宗教というものにかなりバイアスをかけて眺めていた馬鹿な奴だったせいもあって、単眼的思考が複眼的あるいは重層的になったというか、貴重な視座を教わったなあ、目の前に開かれた世界が少し違って見えてきたなあ、と感じている。これは「瞑想」で得られたものではないけれど、私にとっては一つの経験であり体験であり、「単なる書物からの知識」として割り切れるようなものではなかったりする。
で、宗教学というのは教義学ではないし、各宗教が提示する内容を比較検討することでそれらの教義に潜む絶対的な真理の抽出・追究を目指す、というような学問でもない。個人的には、宗教学とは宗教・宗教現象を丸ごと統合的に理解し、ひいては人間理解につなげようと指向するものだと思っている(宗教学やっておられる方々、こんな拙い理解で申し訳無い)。そして「統合的」理解に達することを掲げているがために、醒めた目で解剖するかのごとく研究対象に対峙するのでもなく、社会学・人類学・心理学等々の方法論でもって理解(及び還元)するのでもなく(これらの研究成果は有り難く利用させてもらうが)、宗教をそれそのものとして理解せんとその対象の中に没入し、自らのものとして生き、経験する姿勢が必要となる。だから「知識ばかりで実践のない」という批判は、必ずしも的を得たものではない。宗教学者が「知識ばかり」を用いて世界中のあらゆる時代の宗教現象に迫ろうとしているとお考えなんだとしたら、それは違う。宗教はそんな態度で扱ったところで姿を顕わすものではないから。「実践」という語にどういった内容を含めておられるのかわからないが、一見してすぐに宗教的意味合いを仄めかす行為(瞑想とかその他の修行とか)を実践してはいなくとも、研究対象と自分が交錯し、自分の問題として取り組んでいる人々がいたのを私は知っている。というか、それくらいの自分にとっての切実さが無いと、論文書くのだってただの辛い不毛な作業になってしまう。ま、研究者もピンキリいろいろだろう、だがそれはどんな分野にしても言えることだ。
学究の徒ならば常に批判の目を向けられて然るべきだろうし、それにより個々の研究成果を通してよりよき人間の理解へと導かれるのだろうし、批判が悪いと言うのではない。また宗教学者に向けての個人的な好き嫌い云々ということならわかる。ただ、「その存在価値を認めません」と簡単に言いきってしまえる心性とは何なのだろうか、と不思議なのだ。
vedaさんの語っておられることは興味深いし、すごいと思うことも多々あるし、その真っ直ぐな真摯さには敬服しているんだが、ご自分の体験・獲得した揺るぎ無い信念と自負を盾にして、他者の異なる在り様や考え、方法論などを切り捨ててしまうのでは、少なくとも人間という複雑微妙で矛盾も多い存在の理解には届きにくいと思うし、その豊かさとか多様性に出会う機会を狭めるだけなのではなかろうか。仮に人間を見ずして真理に到達出来たとして、それがどうだというのか。というか、それって可能なんだろうか。人間なんてどうでもよくて理解したいとも思ってなくて、己が普遍的真理にさえ到達できればいい、なんてことを思っておられるわけは無いと思うんだが。宗教だってそもそも聖俗併せ持つ複雑なものだし、人間存在と乖離して宙に浮かぶものではない。人間あってこその宗教だ。
瞑想に限らず、体験しないとわからないもの、説明できないものがある、ということは理解できる。しかし「瞑想したことの無い奴が語ってもまず当てにならない」として、知行合一主義だけが本質理解に至る唯一の道である、と他を閉ざすことで得られるものは何なのか。「瞑想したことの無い」私なんかは、vedaさんのお話は非常に興味深く、これからも拝聴したいと思っているが、単一的な思考や非寛容な偏狭主義は、往々にして人間や宗教現象の複雑さに思いを馳せることなく、インチキとかカルトと呼ばれるものを一切合切危険だと決め付け、そこにも宗教的創造性がある可能性を見逃し、単純な魔女狩りに陥りがちだ。その組織が犯罪的インチキカルトであっても、そこに真実と救いを感じて集った人もいるわけで、少なくともその人々の切実な思いまでもあっさりと切り捨てることは出来ない。その人達は瞑想や適切な宗教的修行実践をしたことが無かったから、インチキを見破られずに騙されたんだ、蒙昧なる愚か者だ、ということは言えない。キワモノ扱いせずにその構造を正視し、理解を深めることが、不幸な事態を引き起こさないために必要ならば、それこそ宗教学の存在意義は大きいと言えるんじゃないか。
ということで、私としては宗教学の意義を擁護したくなってしまうんだが、こういうのは受け入れてもらえないんだろうか。